戦後日本におけるインドシナ難民の定住過程における差別:政策、地域社会、社会意識の構造分析
はじめに
本稿では、戦後日本における差別事例として、1970年代後半から受け入れが本格化したインドシナ難民の定住過程で発生した差別に焦点を当てる。この事例は、それまで単一民族国家意識が強く、難民受け入れに消極的であった日本社会が、国際的な要請に応える形で初めてまとまった数の難民を公的に受け入れた歴史的な転換点であり、その後の日本の外国人政策や多文化共生社会を考える上で重要な示唆を含んでいる。単に人道的な受け入れが実現したという側面だけでなく、彼らが日本社会で定住を目指す過程で直面した政策的、地域社会レベル、そして社会意識における差別構造を分析することは、日本社会に内在する外国人排除のメカニズムや異文化に対する偏見の構造を明らかにする上で極めて有益である。
インドシナ難民受け入れの背景と日本の政策
インドシナ難民問題は、ベトナム戦争終結後の1975年以降、特にベトナム、カンボジア、ラオスの政治情勢の急激な変化により、多数の人々が国外への脱出を余儀なくされたことに端を発する。彼らは、ボートで海上を漂流する「ボートピープル」として国際的な注目を集めた。当初、日本政府は漂流者の漂着に対する一時的な対応に留まっていたが、国際社会からの批判と協調への圧力が高まる中で、難民問題への本格的な対応を迫られることとなった。
1981年には難民の地位に関する条約および議定書に批准し、難民受け入れを国際的な義務として公式に位置づけた。これに先立ち、1979年には政府は難民対策連絡調整会議を設置し、難民定住のための具体的な措置を講じ始めた。難民の受け入れは当初は船上または一時避難先での受け入れが主であったが、次第に定住を前提とした受け入れに移行する。政府は神奈川県大和市など全国数カ所に難民定住促進センターを設置し、日本語教育や日本での生活習慣、職業訓練など、日本社会での自立を支援するためのプログラムを提供した。1975年から2005年までに、日本が定住目的で受け入れたインドシナ難民は合計で11,000人以上に上る(難民事業本部報告書等による)。
定住過程における具体的な差別と困難
難民たちは、政府の定住促進センターでの約半年間の研修を経て、日本各地の地域社会へと送り出された。しかし、ここから彼らは多様な差別や困難に直面することとなる。
1. 雇用における差別
最も深刻な問題の一つが雇用であった。日本語能力の不足、日本の労働慣行への不慣れに加え、「難民」というステータスそのものに対する偏見や、「いずれ帰国するのではないか」といった誤解から、安定した職を得ることが困難であった。製造業や建設業など、特定の業種に集中せざるを得ない状況が生まれ、不安定な非正規雇用や低賃金労働に甘んじるケースが多く見られた。これは、単なる技能や言語の問題だけでなく、採用側や同僚の中に存在する、外国人労働者、特に難民に対する潜在的な差別意識が背景にあった。
2. 住宅における差別
賃貸住宅を借りる際にも差別は顕著であった。保証人の問題に加え、「外国人」「難民」であることを理由に、家主や不動産業者から入居を断られる事例が多発した。これは、文化・習慣の違いに対する不安や、近隣住民とのトラブルを懸念する偏見に基づいていた。公営住宅においても優先的な入居枠は限定的であり、多くの難民が劣悪な住環境や、特定の地域への集中を余儀なくされた。
3. 教育における差別と困難
子どもたちの教育も課題であった。日本語指導が必要な児童・生徒への支援体制は不十分であり、学校現場には多文化教育に関するノウハウや人材が不足していた。いじめやからかいといった直接的な差別に加え、進路指導における適切な情報提供の不足、保護者と学校間のコミュニケーションの困難さなど、間接的な差別や教育機会の不平等が生じた。保護者自身も、日本語の壁や経済的な困難から、子どもの学習支援に十分に関わることが難しい状況にあった。
4. 地域社会における摩擦と偏見
難民が地域社会に定着する過程で、言葉や生活習慣の違いから近隣住民との間に摩擦が生じることもあった。こうした摩擦が、難民に対する否定的なステレオタイプや偏見を助長するケースが見られた。「騒がしい」「ゴミ出しのルールを守らない」といった個別の問題が、「難民は問題を起こす存在だ」といった全体的な評価に繋がり、地域からの排除意識を高める要因となった。行政や地域住民による相互理解を促進する取り組みは限られており、異文化間の溝が深まることもあった。
分析と考察
インドシナ難民の事例から見えてくる差別構造は多層的である。
まず、国家レベルの政策自体が、難民を「保護される対象」や「一時的な滞在者」として捉え、彼らが日本社会の一員として根を下ろすための長期的な視点や、既存の社会構造に内在する差別への対策が不十分であった点が挙げられる。難民事業本部による支援は一定の役割を果たしたが、退所後の自立を地域社会や企業任せにする側面が強く、構造的な差別に立ち向かうための法制度や支援体制が十分に整備されなかった。
次に、地域社会レベルでは、日本社会に根強く存在する「外部」や「異質なもの」に対する警戒心と排除のメカニズムが作用した。これは、単一民族神話や「和」を重んじる集団主義的な文化、そして外国人や非定住者に対する歴史的な偏見と無関係ではない。情報不足や異文化理解の欠如が、不安や誤解を生み、差別的な態度や行動に繋がった。
さらに、人々の意識レベルでは、「難民」というスティグマが彼らの社会参加を阻害した。難民は、自らの意思で国を離れざるを得なかった人々であるにも関わらず、「可哀想な人々」「特別な配慮が必要な人々」といったラベルを貼られ、能力や可能性を正当に評価されない状況が生じた。また、経済的な困難を抱える彼らに対する「福祉に依存する存在」といった偏見も存在した。
この事例は、単に個人の悪意による差別だけでなく、政策の不備、地域社会の構造、人々の無意識的な偏見やステレオタイプといった、より広範な社会構造の中に差別が埋め込まれていることを示唆している。これは、社会学における差別論やスティグマ論、多文化共生論、あるいは国家による外国人管理のメカニズムといった視点から分析することが可能である。例えば、アーヴィング・ゴッフマンのスティグマ論を援用すれば、「難民」という属性が彼らを「汚れたアイデンティティ」を持つ者と見なし、社会からの排除や距離を生み出した過程を分析できる。
まとめ
戦後日本におけるインドシナ難民の定住過程で発生した差別は、日本社会が異文化を持つ人々を迎え入れ、社会に統合していく上で直面した課題を浮き彫りにする事例である。この事例は、受け入れ政策の不備、地域社会の受容体制の不足、そして社会に根強く存在する外国人に対する偏見といった多層的な要因が絡み合って発生した構造的な差別であったと言える。
この歴史的な経験から学ぶべき点は多い。難民や外国人労働者など、新たな移住者を受け入れる際には、単なる一時的な保護や経済的支援だけでなく、彼らが社会の一員として自立し、尊厳を持って暮らせるよう、雇用、住宅、教育、医療といった生活全般における構造的な課題に対処するための包括的かつ長期的な政策が必要である。また、地域社会における異文化理解を促進し、偏見や差別意識を解消するための継続的な取り組みが不可欠である。インドシナ難民の事例は、日本の多文化共生社会の実現に向けて、今なお克服すべき多くの課題が存在していることを示唆しているのである。